4話 生存戦略
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初めてのキスは長く執拗で、アスミから抵抗する気力を奪っていった。
甘美な攻めに翻弄され、アスミは岩場にぐったりと背中を持たせかける。
唾液の糸をひき唇が離れる。
腑抜けた顔のアスミを見て、健太郎は楽しげに笑い、汗で額に張り付いた前髪をそっとわけた。
「俺のキスは気に入ったみたいだな。目がトロンとしてるぞ」
揶揄うようにそう言われ、ぼーっとしていた頭の中が一気に覚醒する。
「な……」
アスミは背筋を正し、彼をきっ、と睨みつけた。
「気持ちよくなんてない……あなたの勘違いよ」
しかしその声はみっともなくうわずっている。
これじゃまるで、彼のことを相当に意識しているみたいだ。
案の定、健太郎からのツッコミが入った。
「鏡で自分の顔を見てみるか。真っ赤だぞ」
「……!」
「けどまあ、そういうことにしといてやる。女には言い訳が必要らしいからな」
健太郎はポンポン、とアスミの頭を叩き、立ち上がる。
「……続きはまた今度だ」
「ちょっと待って。どこに行くの」
「寝る」
「寝るって、どこで……」
健太郎は答えずに、洞窟のさらに奥へと消えていく。
「あ……」
しん、とした空間に、己の声だけがこだまする。
立ち上がって彼の後をついて行こうかと一瞬思ったが、思いとどまり、アスミは岩にもたれて肩を落とした。
(行っちゃった……)
ひとりぼっちで取り残されると、孤独が一気に押し寄せてくる。
味方……とまではいかないけれど、とりあえず健太郎は、アスミに危害を与える気はなさそうだ。
自分を守ってくれる人が間近から消え、心細くなっているのだと自分で自分に言い聞かせる。
と、可愛らしいボーイソプラノがアスミに投げかけられた。
「あ〜あ。健太郎って極端に言葉足らずだよね。あれじゃあ絶対にモテないよ。せっかく素敵なルックスなのに、もったいないなー」
声のする方を見ると、昨日のうさぎが腕組みをして、健太郎の消えた方角を見つめていた。
「君は……」
アスミが声をかけると、うさぎはにっこりと笑いかけてきた。
「おはよう、アスミ。僕の名前はラビ。健太郎のお目付役なんだ。よろしくね」
腕がさっと差し出され、強引な握手が交わされる。
人……ではないかもしれないが、誰かがいてくれることにアスミはホッとする。
さっきまで感じていた痺れるような孤独が、少しは薄まっていく気がした。
「よ、よろしく……」
とまどいの後に好奇心がむくむくと鎌首をもたげる。
健太郎と違い、ラビはフレンドリーでコミュニケーション能力が高そうだ。
「あの、さっきの……ドラゴンはどこに行ったの?」
「健太郎って呼んであげて」
「健太郎は……」
「部屋で寝てる。さっきアスミを癒しただろ。あれってエナジーをかなり消耗するんだ。充電しなきゃいざというとき動けない」
理路整然とした説明だが、どこに行ったのかという質問には答えられていない。
「あ。そうだ。ごめんごめん。僕、こんなことができるんだ」
ラビがバチンと指を鳴らすと、見えていた景色が一瞬で変わった。
ゴツゴツした岩場は大理石に変わり、南国風の木がそこここに生い茂っている。
湖だった場所にはまだ水が満たされていたが、白い湯気があがっていて、まるでゴージャスなスパみたいだ。
「こんな感じで、健太郎には健太郎用の部屋がある。今頃ふかふかのベッドで熟睡してるよ」
ラビはそう言うとにっこり笑った。
「すごい……君って魔法使いなの?」
アスミは感嘆の声を上げた。
「ううん。でも、ま、似たようなもんかな」
いたずらっぽい目でそう言うと、うさぎは得意げに胸を張る。
「似たようなものって?」
「……能力に名前なんて必要かな? 僕はいらないと思う」
質問を軽く一蹴され、アスミは一瞬怯んだ。
しかし、気を取り直してこう尋ねる。
「ねえ、君が私をこの世界に連れてきたんだよね」
「うん。そうだよ」
ラビはあっけなくそのことを認めた。
「どうして……?」
「それが君の運命だから」
「私の運命……」
「運命には誰も抗えない。僕はそのお手伝いをしただけ」
謎のような言葉は続く。
「日本に住むごくごく一般的な普通の女の子。それが自分だと思ってただろう? だけど本当の君はね、ここ、マスカレード国の片田舎に生まれた、めちゃくちゃ特別な女の子なんだ」
キラキラと瞬くラビの瞳を、アスミは不思議なものを見るようにじっと見つめた。
「アスミは尋常でないサバイバーなんだ。18歳になるまでドラゴンの生贄として、ずっと一人ぼっちで小屋の中にいた。友達も親も、気にかけてくれる人も誰もいない。こんな孤独、めったにないよ。僕なら絶対に耐えられない。本当によく頑張ったよね。でもこれからはもう大丈夫。健太郎が君を守ってくれるから」
アスミは唖然として眉根を寄せた。
「ごめん、何を言ってるのかわからない……私にそんな過去はないわ。別な女の子よ。その子の体に私の意識が乗り移っただけ」
「ふふっ。それでいいさ。過去なんて全然意味がない。大切なのは今。それだけだから」
ラビは満足そうに頷きながらこう言った。
「君は今のところ、全て正しい選択をしてる。自分の得になることばかり選んでいるからね。とってもいいことだ。生存戦略として理にかなっている」
勝手に盛り上がっているラビに反発し、アスミは強い口調で言い返した。
「過去に意味はちゃんとあるわ。だって大切な人のことは覚えていたいものでしょう」
「例えば?」
「パパとか……ママとか……」
「なるほど。じゃあママの名前を教えてよ」
「それは……」
アスミは言葉に詰まった。
(嘘でしょ。思い出せない)
アスミは記憶の穴に初めて気がつく。
(私の地元ってどこだっけ。友達は……短大はどこに通ってたっけ)
はっとして目の前にいるラビを見ると、つぶらな瞳がピタとアスミに据えられていた。
心の奥底を見透かすような赤い瞳が、不気味に光る。
「大切なのは今。それだけだから」
鈴が転がしたようなボーイソプラノがよみがえり、アスミはゴクリと唾を飲んだ。